俺は96年のサンピンキャンプの後にサンフランシスコやオークランドを旅してその当時のリビングレジェンズやサフィアのスタンスに少なからずも影響を受けた
そして紆余曲折を経て現場至上主義を貫きたいという思いが更に強くなっていったんだ
だから急激な青田買いが始まったサンピン以降いくつもの甘い話やオファーが来たが総て断った
まだ世間知らずで未熟だった俺は自分の無限のポテンシャルに気付いてはいたがそれをどう使っていいのかまるで初めてガンダムに乗ったアムロのようにわからなかった
あと多分生まれ持った予知能力が泥の舟で大海にこぎ出すのだけは避けたいといつも俺の心に話しかけて来たからだろう
それに凄まじい潔癖症がその予知能力に輪をかけて急に近づいて来たレコード会社の人達が本当に一生を賭けた使命をともにする同志かどうか判断する際に待ったをかけ続けたからだとも思う
勿論作品はミュージシャンが創るものだが自主じゃない限り他の人が手伝うことになる
それをセンスや心のない人間がセールスをすると思うととても我慢ならなかった
例えば、俺が中華の一流シェフだとしよう
そしてスポンサーが用意した大きな酒家の料理長として契約したとする(つまりメジャーと云うこと)
そこでお客さんの顔が見えない大きな厨房で注文を受け次々に作っていく料理をフルコースで出す際に志しの違うスタッフにオーダーをとりに行かれたり料理を運ばれたりする事はアウトだった
多分わがままな俺は普通じゃああり得ない事がしたかったんだと思う
料理を運ぶスタッフの立ち振舞い一つで全く料理の味が変わるように心のあるアーティスティックなスタッフ達とライブやCDセールス意外の部分でもアートしたかったんだ
それが出来ないなら自営でカウンターだけの小さい店でもいいから一人一人の顔を見て料理を作りたいと思った
それが今日の俺の生きかたの基盤になってる
だからその当時一番近くにあったえん突つでもツイギーやDJYASとコンピ意外で作品を出してないんだ
俺はただ金の為や地位向上のために仕事として音楽をしたくなかったから天地人(天の時、地の利、人の和)が揃うまでバイトしながらでも待とうと決めていた
ちょっと不思議な話Pt.1でも触れたように根拠のない自信と使命感がいつになるかわからないが来るべき日まで待ち続ける事を選択した俺を支え続けた
そのかわりイベントの企画や裏方、この街の裏通りを快適に歩けるように自分のクルーのサポートに全力を尽くしたよ
だからライブを中心に生活していつか自主でそれまでのベスト盤を一枚出せればいいと本気で思っていた
んだ
んー話足りないが今夜のレコーディングの用意があるから続きはまた明日に話すよってか長くなりそうだから今週1週間かけてじっくり俺の価値観をはなそうかな
そっちぇ
“