実際、そういう人が何万人に1人の確率でいるらしい
だけど俺はなぜ記憶があるんだろう?って考えた
考えられる原因はいくつかあった
やはり第一に五歳の時にフィリピンから日本に来たことがおおきいと思う
ちなみにマニラにすんでいる頃、俺は普段はタガログ、幼稚園では英語そして母親とは日本語で話してた
それでも一年中常夏の国からいきなり四季のある日本に移っての生活で受けたカルチャーショックは幼心に残った
だから当時の記憶が鮮明に残ってるんじゃないかな
そしてもうひとつ不思議な話があるんだ
それは二歳になったとき、妹が産まれる前の日のことだった
その夜、いつ産まれてもおかしくない状態の母に父は病院でつきっきりだったから俺は女中さんと留守番してた
夕食後、リビングでみんなでTvをみてたんだ
どのぐらい時間がたったかわからないけどふとしたら3、4人いた女中さんがみんな寝ていた
Tvは砂嵐
むこうのひとは物凄く大きな音で聞くからザァーッて音が怖くて怖くて
あわてて寝てる女中さんを起こしても誰も起きてくれない
みんな死人のように動かない
すると閉じてたはずの窓が開いて物凄い風が吹いてきた
長いカーテンが揺れた
そして何故か聞き覚えのある父方のおばあちゃんの声が聞こえてきた
「ジュンジュンおばあちゃん死んじゃったよ」って姿が見えないのに何回も話しかけてきた
ちなみに俺の親父の名前はセフェリノ・ラティーナその二世ということで俺はリノ・ラティーナ・ザ・セカンドなんだ
だから俺は家でも幼稚園でもジュニアの意味を込めてジュンジュンって呼ばれてたんだ
それは日本に来ても中学に入るまで変わらなかった
ウジやハブはじめ、いまだに仲いい奴はそう呼ぶんだ
さて話を戻そう
結局それが俺にとっておばあちゃんとの最後の会話になった
その夜、おばあちゃんは心臓発作で倒れもどらぬ人となった
今考えてみればあのときたくさん話しとけばよかったって思う
当時、死の意味もわからない俺はなにしろ怖くてしかたがなかった
一つだけ確かなことは間違いなくおばあちゃんは次の世界に行く前に会いに来てくれたってこと
その日俺は泣きながら寝た
次の日の朝、起きるなり「ローラが死んじゃったって」叫び続ける俺をなだめきれない女中は困り果て病院に連れて行くことになった
「フィリピンでは祖父をローロ祖母をローラという」
その頃病院では出産後の母のベッドの横で父が付き添っていた
お昼過ぎ、父宛に祖父から内線で連絡があり父は初めて祖母が亡くなったことを知った
さらに産後で疲れてる母には後で伝えるようにと祖父は気遣ってくれた
でもその瞬間霊感の強い母はピントきたらしく「おばあちゃんに何かあったの?」と父に聞いたらしい
参ったなと父が説明しようとしたそのとき突然部屋の扉があき「この子が朝からローラが死んじゃったっていうこと聞かないんです」って女中さんに連れられ俺が入って来た
この話を聞いてどう思うかは自由です
でも俺はこういう不思議なことが小さい頃に何度かあったからその頃の記憶をしっかり覚えてるんだと思う
他の不思議な話はまたの機会にしたいと思う
以上、今回の不思議な話はここまで
最後におばあちゃんに「ローラ元気にしてる?俺は元気にやってるよ!来年はいろんなことにチャレンジしようと思ってるから見守っててね」
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